貴方の見ているドメインは

ドメイン www.drfriendly.com

このページについて

    徳次がまだ若僧で父親の手伝ひをしていた時分には、帰るとすぐ夜通し積荷をして、明け方又下る、といふことも珍しくはなかつたが、今では荷出が一週間に一度あるかないかである。だから、三四軒あつた同業もすつかり足を洗つて、徳次が一人のこつているわけだが、彼は目先の利く他の連中のやうに先の心配なんかはちつともしなかつた。荷がない時には筏師になつた。流木を筏に組んで下るあれである。それもない時には河漁をやつた。

    房一も人に揉まれて立つていたが、構内の落ちつきを見ると、近よつて事情を確かめようとした。すると、その時、彼よりも先きに誰かがやはりさうしようと思つたらしく、構内へ上る土手に足をかけようとしたはずみに、そこは溝だつたと見え、たちまち安定を失つて水の中に落ちた。男はすぐに土手に匍ひ上つたものの、下半身づぶ濡れになつたらしく、しきりと裾をしぼつているやうだつたが、又滑つて尻餅をつき、土手にへばりついたのが、ちやうどその上方に立つた高張りの明りでぼんやりと、だが、蛙か何かがばたついているやうに見えた。その時、高張りの下で木柵に凭もたれて様子を眺めていた長身らしい人影が、突然大きな笑ひ声を立てた。すると、火事騒ぎで興奮していたらしい下の男は、土手の途中に立ち上ると、

    だが、このはてしのない遠慮深さは気持の悪いものではなかつた。

    根津は自分の座敷から脇差を持ち出して再び便所へ行った。戸の板越しに突き透してやろうと思ったのである。彼は片手に脇差をぬき持って、片手で戸を引きあけると、第一の戸も第二の戸も仔細なしにするりと開いた。

    一度房一は家中の眼をぬすんで一人で馬を引き出したことがある。彼は馬小屋の壁の横木によぢ登つてそこから馬に乗らうとしたが届かなかつた。考へた末に木箱を幾つか探して集めてそれを段々に積み重ね、その上から馬の背に渡らうと試みた。それはうまく成功した。馬は彼にとびつかれて始めは驚いて二三度首を振つたが、彼が次兄の日頃やる通りの真似をして落ちついて、短い足で何度か蹴ると、馬は思ひ出したやうに足を踏み出した。

    だが、時には彼等の間にも、まるで一日中陽に温められて色づいた麦畑からそのまゝ入つて来たやうな男もあるのだつた。肥つて日焼けがして彼は自分から病気を診みてもらひに来たくせに、房一の呉れる薬を不審さうに眺めて、そんな病気のあることを信じないかのやうに頭を傾かしげて、それから大声で(それは麦畑の穂の列を吹き抜けて行く、乾いた快い風のやうな響きを帯びていた)彼の持牛についた虱しらみをとる薬はやはり人間にも同じ効きき目めがあるのかね、と訊いたりするのであつた。

    その長男、つまり房一の父にあたる人は、幼い時から百姓の子として育てられたわけで、風貌こそまるで一介の農夫であるが、単純で大まかな一種長者の風があつて、その住んでいる地域、つまり対岸の町を除く河場中の尊敬を一身に集めていた。老いと共に彼も先代の容貌に甚だ酷似して来たが、彼には先代のやうな底の逞ましさの感じがなくて、先代よりも凡々としていた。彼の妻はやはり士族の出で、上流の城下町から娶めとつたのであるが、三男二女を生んで死んだ。子供は大きくなつていたが、やはりその城下町から不幸な大工の娘を無造作に後妻に貰ひうけて、この女は肥つた人の好い気質の働き者であつたが、彼は家事一切を彼女に任せて何事もなく和した。

    練吉は路の傾斜のために自然とずり下りかけた自転車を引き上げようとして身体を動かした。そのはずみに、彼の横顔が房一のすぐ鼻先きにぐつと近づいた。練吉の頬はきれいに剃刀かみそりがあてられ、もみ上げから下の青味を帯びつるつるした皮膚にはこまかい汗がにじみ出ていた。そのとき房一は思ひがけなく練吉の匂ひを、髪や香油のそれではなく、何か練吉その人の匂ひを嗅いだ。

    「ふむ」

    徳次は水際につないである船の所に行き着く前にもう褌ふんどしとシャツ一枚の半裸体になつていた。衣類をくるくると円めて、帯でひつ括くゝるなり、ぽんと手前にはふり出して、いきなりざぶざぶと河の中に入つて行つた。船体を蔽つてあつた帆布をめくりとる、敷板を上げる、ロープを片づける、その後は船体の水洗ひだ。

    「わたしはね、こいつは割れさうだなと思つたもんでね」と、笏で自分のはいている木沓を指して、

    「よし!」

    と、房一は帽子を手にやつた。

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40